親父の遺品を整理してたときに見つけた日記のようなもの。
その中に二・二六事件のときのメモがあった。
朝日新聞の人にとってはいいエピソードだと思った。
「朝日人」という社内にしか出回らない社内誌がある。
それに、メールを出してみたが掲載されなかった。
なので、ここに掲載しておきたいと思う。

昭和11年2・26事件発生。
朝日新聞社も襲われた。雪が降って大雪の朝だった。
2・26事件で朝日新聞が襲われたというので早目に出勤の途についたが、
数寄屋橋は通れず、丸の内橋の方へ回っても橋の上で警戒の警官に止められて
通行出来なかったが、印刷庶務の者が来て、その証明で会社に行くことが出来た。
兵隊は輪転機と活字を目指して荒らそうとしたらしく、私たちの
職場活版部で活字の並んだケースがほとんどが壊された。
職場は活字の海という状態だった。
しかし、予備の活字ケースが活版部倉庫になっていた小室に入れてあったので気付かず
無事であったため、みんなの懸命な努力で復旧したが、
夕刊は刺激を与えないようにというので発行を見合わせられた。
内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎が殺害された大事件であった。
岡田首相は義弟が身代わりで殺害されて助かった。
岡田は辞職し、広田内閣の発足となった。(輪転機は支障なし)


もう一つ目についた記事は、
戦争でボルネオ新聞を発行する仕事従事してたときの
過酷な環境についてであった。
戦時中にボルネオ新聞バリックパパン支社に出向
家族に宛てた手紙。さまざまな写真。ボルネオ新聞の1面。
日記にはこう書き記してある。
1945年(昭和20年)
8月15日の敗戦の日まで、私たちボルネオ新聞バリックパパン支社の一同は種々の苦難に遭いながらジャングルの
中から生きのびたことは奇跡の思いがする。6月15日バリックパパンが艦砲射撃開始され山に入ってから
は爆撃機や戦闘機による恐怖を味わいながら所々で資材を失いながらも陣中新聞を発行したことは大変
なことだった。英軍が7月に上陸してからは爆撃をされてないサマリンダの支局をめざしたが、サマリンダに
程近い地点まで行ったとき敗戦の報があり愕然とした。サマリンダに着いてから1ヶ月足らずの日に
近くの小学校で新聞を2、3回ぐらい出しただろうか、それを最後に仕事はできなくなった。ロア・ボアという
(注:終刊は9月5日となっている)
ところに兵隊や民政部の人たちにより抑留生活の宿舎がつくられそこへ移った。与えられた畑
に食料になるものを作り、野草とりやコンビーフの缶詰、乾パン、お米などの軍需物資による食いつなぎをしなけ
ればならなかった。炊事は兵隊さんの中に本職に近い人がいたので余り心配はなかった。散髪には困ったけ
れど住民たちから道具を調達してもらいわが社の中でまがりなりにも出来るもの(吉田滋君)が引受けて券を
割り振っては一日数人の頭をやれば作業には出ないでよいシステムだった。私は一度抽籤でテンガロンという
ところに炭鉱の仕事にゆくことになったとき、みんなが私の体を心配してくれたが、くじで決めたことなので行く
決心をして船に乗り込んだ。なんという河か知らぬが船で数時間かかってテンガロンに着いた。そこにはオランダ兵の気のいい司令
官らしい者がいて作業班を作るとき通訳のできるこちら兵隊が私を炊事班の一員にしてくれた。これはほん
とうに助かった。その後この人とは会ってないが、仲間の人たちも私をかばうようにしてくて一週
間の務めを終え、船に乗ったときはほっとした。ロア・ボアの抑留生活中に同期入社した
西田豊一君が病いを得てロア・ボアの外れにある病舎で死亡したことは本当に悲しい出来事だった。